しくじり先生


しくじり先生

しくじり先生私は学生時代、化学を専攻していました。というのも、中学生の夏休みにアルバイトで近所の工務店に行く事になったのですが、何もない空き地に建物が建っていくのを見て感動し、それ以来建築に携わる職業に就くのが夢でした。

しかし、世はバブル期の真只中。建築科は花形分野で競争率も高く、頭の悪い私は諦めるしかありませんでした。それで、無難に合格する化学科へ進路を変更することにしました。

しかし、夢はどうしても諦められないものです。卒業後、一人で経営されている個人の会社に「丁稚奉公(でっちぼうこう)」をすることになりました。小さな会社ですが、雑誌にも取り上げられるほどの有名な先生でした。

最近では丁稚奉公という言葉も死語になりかけていますが、数十年前までは手に職を付けるために、お金ではなく技術を盗むために雇われていたものです。事実私の周りには、他の会社ですが何人も丁稚奉公をする人達がいました。

「盗む」と書きましたが、まさに技術を盗むのです。教えてなんか貰えません。頂く給料も殆どタダ同然です。寝泊りは事務所。誰もいなくなった事務所で、深夜まで先生の作品(設計図)を広げ一人勉強したり、建築の本を読んだりしていたものです。今みたいに、あの会社は給料がいいから、休みが多いから・・・などの条件では丁稚奉公はできません。それでも続けられたのは、いつか必ず独り立ちして輝く表舞台に立つ。それが目標で死に物狂いで毎日を過ごしていました。

そして、23歳の若さで独立しました。今思えば右も左も分からない若造です。ヒヨッ子もヒヨッ子、生れたばかりのヒヨッ子です。

そんなヒヨッ子がどうにかやって行けたのもバブルのお蔭なのかもしれません。今のご時世なら独立して1年も経たないうちに閉店ガラガラでしょうね。

そうこうしているうちに、ヒヨッ子も若鶏へと成長し、どうにか世間からも認めてもらえるようになり、従業員も増え、個人経営から脱却するまでになりました。
当時の株式会社は資本金1,000万円でしたが、若鶏へと成長したヒヨッ子は預金もそこそこあり、税理士の勧めで株式会社を設立することにしました。

その後も、資金力を手に入れた若鶏は、事業拡大を目指し企画会社、飲食業など他業種へも進出していくことになります。まさに飛ぶ鳥を落とす勢いです。

しかし、時代は大きく動くことになります。バブルの崩壊です。
バブル崩壊で一番の打撃を受けたのが建築関連の業種でした。私の会社もご多分に漏れずバブル崩壊の余波を受けることになり、倒産の憂き目をみることになりました。

倒産して初めて分かったこと、知ったことは「自分の力のなさ」と「人の温かさと冷たさ」、そしてこのサイトか、プレゼントしているどれかに書いていると思いますが、金融機関の「雨の日に傘を取り上げ、晴れの日は傘を差し出す」という事実です。

 

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